考えることを放棄しなくていい

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花灯 明里(かとうあかり)です。ブログにお越しいただいてありがとうございます♪

ふと。私がいまやっていることって何なんだ?と立ち止まってみたときに。

会社のお仕事が私の人生の中心ではない。セッションのお仕事が人生の目的ではない。

何もない?と、時に空虚な気持ちになってしまったりして。

でもそれは違う。いまだ慣れぬ生活に疲れを感じて、それに引っ張られているだけなのです。

たぶん、それは私のような状況の方なら同じかもしれません。

そうなの、考えを引っ張られているだけなの。そしてそれを“利用”しようとするひと・もの・こともあふれているのでね、それにも引っ張られているのです。

だから、空っぽのように思える自分を嘆かないでください。それは絶対違うから。

疲れすぎると休んだときの(週末の)反動が凄くって、ホントこころの中で、夕焼けで真っ赤に染まった広い空を眺めているような、圧倒されているような淋しいような、何とも言いがたい気持ちになるときがあります。

でも、それもまた、どこかに自分の思考を感情を引っ張られているだけなのでね。または、しんどすぎて思考と対峙することを自ら避けている≒感じないようにしているともいうのかしら。

実際はちゃんと“ここ”、自分の中心に存在しています。だからまずは安心していい。

私はずっとずっとずーっと、不安と恐怖からの逃避を中心に人生のあれこれを考えて行動してきました。

でも、そんなことしてきても何ひとつ変わることはなくて。むしろうまくいかないことばかりで。

それらを強制的に手放したとき、たとえば考えることに疲れ果てて降参したときなどに、不思議と自然に人生の舵取りがなされて、方向が変わって…という繰り返しでした。それでも思考のクセはなかなか変わらず、繰り返しを繰り返していて。

だから、もう考えることはやめて状況に流されてみようと思って、そのようにしてここまで来ました。

それでもやっぱり“うまくいかない”ことはたくさんあるし、疲れるときは疲れるし。

自分をどうしていきたいかと考えてはいけないのかな、と少し疑問に思ったときに、私の中の人(こころの深いところ[ハイアーセルフや魂、潜在意識など]を私は中の人と表現しています)からのメッセージが脳裏に伝わってきて。

『考えを放棄する必要はない』と。『クリエイティブであることを止めた覚えはひとつもない』と。

感情を選ぶことは、着ぐるみである私たち(表層意識の存在。この世界でのプレイヤー)の自由であり責任であると、中の人から前に伝えられましたが、その感情を選ぶにあたって、つまりは着ぐるみの自分を真実を選ぶにあたって自ら考え行動してみることは自由なのだそうです。

人生の主導権は中の人にあるので、着ぐるみ側の意図した考えと行動がうまくいかないこともある。それをしっかり踏まえていれば、むしろ思うままにやってみていいと。

楽しい感情を選びたいから、あれこれ考えてやってみた。うまくいけばそれでOKだし、うまくいかなければ中の人が悪い!と責任転嫁していいんですと(笑)。おぉ、そう考えれば着ぐるみの人生も結構楽しそうじゃないですか?

私も、何も起こらないという最低限のラインの人生を目指すのではなく、もうちょっと楽しい人生を選んでみようかなと思えるようになりました。

そのアイデアを考えるのはきっと楽しい。まだ全然浮かばないんだけど(笑)きっと楽しい。

楽しいことを考えて、勇気を出して動いてみて、うまくいったら楽しい感情を持てる。

失敗したら「私のせいじゃないも~ん。中の人がそうしたんだも~ん」なんて言っちゃって、しかも失敗貯金が貯まるね(あいかわらずガンガン貯まってますよ~ 笑)。

ポジティブ思考になれということではないです。ポジティブ思考でもいいんだよって感じでしょうか。

中の人+着ぐるみ=“わたし”。中の人にゆだねることは人生の流れを良くはするけれど、着ぐるみ側にある自由を放棄する必要はありません。

ここ数年の私はかなり中の人にゆだねていました。それは、そのほうがうまくいくという確信もあります。

だけど、その反面「ゆだねなければ、また怖かったり不安だったり心配したりする人生になってしまう」というネガティブな縛りもあったのではと、今は気づきました。

中の人が創り出す世界でしか生きられないのだから、何をしてもどうしても、それなりにそうなってしまう。

ならば。着ぐるみの私が何をしても、中の人が赤子を見守るように微笑んでくれるのなら。

私がなりたい感情を選んでみようと。そのために、私の存在する世界は中の人にゆだねながらも、私なりのアイデアと行動も試してみようかなと。

今、そんなことを考えています。